2011年12月30日金曜日

夜の話

こんにちは!
今年も残りわずかになりましたね。






さて、本日は、『夜の話』。

ホントに何気ない話なんだけど、
こんなこと言っちゃうのもあーゆう状況下だったからなのかなと、今は思います。
共感してくれる方がいたらうれしいです。





ちなみに、これは完全に僕の話です。

僕は震災時、近所の中学校に一泊したのですが、
そこには同級生たちもたくさん集まっていて、
夜は軽い同窓会みたいな感じで、みんな外に集まり、
これからどうするか、そんな話をしていました。









それで、
フッと空を見上げたとき、

今まで見た事もないぐらい、星空がキレイでした。



これ、共感できる方、いらっしゃいませんか(笑)?








普段は、街の明かりに照らされてあまり映えないというか、
便利な光に照らされてばかりで、星を見る機会なんてなかったけど、

あの日、街明かりも信号も消えた夜は、
ほんとにきれいな星空でした。





当たり前に、
水が止まればそれを直す人がいて、
電気が止まればそれを直す人がいる。


電気がついた時、
『あっ、電気ついたー!』

って、みんな言いましたよね?




水が出た時、

『っしゃー水でたー!!』


って、僕も言いました。




たぶんあんなハイテンションで、
電源をつけたことはありません。














でも、それ以前に、

完全に電気がない、
普段ありえない状況だったからこそ見れた、
普段ありえない綺麗さの夜空にグッときた。









ちなみに、

その時話していた同級生はみんなバイバリの体育会系で、
見た目はだいぶヒドイというか、星空をみるようなガラではないのに、

男4人で、キレイな星空に見入ってしまいました。






東北の人たちも見たのかな?
あの素敵な星空を。きっと大丈夫だと勇気づけてくれてるような空だった。



2011年12月29日木曜日

旅館の話

こんにちは。本日も元気に更新します。
先日、エピソードと一緒に、『ブログ感動しました』
っていうメールが来てて、こっちも感動しました。

もっと頑張って書きます。
ありがとうございます!!!







『旅館の話』。
この話は僕の恩師から。
もっと言っちゃえば、高校時代やっていた部活の監督がくれた話です。





僕がやっていた種目では、毎年、茨城県内で選抜チームが組まれていて、
その選抜に選ばれたメンバーは、毎年、京都遠征に行きます。




今年は5月に、その遠征がありました。
毎年、全国から選手が集まるイベントですが、
岩手、宮城、福島のチームが欠席。

被災地で出場していたのは茨城県だけだったようです。






茨城県の選手団は、同じ宿舎を毎年使っているので、旅館の方達も顔なじみで、
毎年この時期になると、新しい選手達が来てくれるのを
楽しみに待っていてくれています。





そして、迎えた今年、日程を終え、
代表者が宿泊料を支払いに行ったところ、



『今年は結構ですよ』と言われたらしい。









最初は何のこと言っているのか分からなくて、
再度聞き直したところ、

『私達は被災地の方に何もできていない。
こんな状況下、今年も京都に来てくれたことに感謝しているし、
被災地の方からお金をもらうことはできません。
その代わり、来年もまた遊びに来てください』


という意味だった。





これには参った、と、話をしながらも感動して泣くしかなかったらしい。
ちなみに代表者のコーチは宮城の出身。なおさら感動したんだと思う。









最終的に、監督とコーチ達の代金はきちんと支払いを行わせてもらい、
選手団(子供たち)の代金は旅館のご厚意で無料、余ったお金は募金をして帰ったそうだ。












これには正直驚きました。

しかも、この話をするときは、旅館名を伏せる約束まで。
謙虚というか、なんというか。。。





僕も茨城県に住んでいて、たくさんの方から応援してもらっている立場だけど、
こういう大っぴらにしない良い話って、もっとたくさんあると思うんですよね。


日本人って、ほんと温かいんだと思うんです。


土地柄とか、田舎だからとか、
それももちろんあるけれど、

日本人のモラルとか、温かさって、
世界レベルで見てもすごいと思う。



本当はとても強い国だから、こういった優しさとか、
温かさが生まれるんじゃないかなと思った。

2011年12月28日水曜日

人の本当の姿とは

こんばんは。
今日テレビを見ていたら東日本大震災から九ヶ月がすぎて
特別報道番組が放送されていました。
その番組のテーマは

~あのときできたこと、できなかったこと~

地震当時の大津波の映像や避難所の映像などが放映され
改めてどれほど規模が大きい震災だったかを実感させられました。



さて、テレビ番組のテーマを借りて
~あのときできたこと~
がテーマのエピソードを近所の同年代からお聞きしたので
お話しさせていただきます。

私の近所はヤンキーやチンピラといった
夜な夜な爆音でバイクを乗り回したり
他人に迷惑をかけそうな人たちがたくさんいます。

私の中では正直そういう人は悪いイメージしかありません。
でも、近所の方のお話しを聞いてガラッと今までの概念が変わりました

その方のお話しによると震災があった次の日
食料を求めて食料を販売している数少ないスーパーに長蛇の列が並ぶなか
ヤンキーやチンピラが最前列に並んでいて
あるおばあちゃんが後列に並んでいたそうな。

すると、最前列に並んでいた数人のヤンキーやチンピラが
後列に並んでいたおばあちゃんに順番を譲ったのをその人は
見てたらしく
この話を聞いて私は悪いイメージしかなかったヤンキーやチンピラ
も皆悪い人ではないんだと、ちゃんと助け合い、思いやる心を持っているんだな
と思い知らされた。
私もその勇気や思いやりは見習わなくてはいけないなとも思わされた。


このエピソードで改めて思いやりや人と人との絆というのを実感させられました。

2011年12月27日火曜日

フリーズドライな話


こんにちは。
今日は、昨日いただいたメールから1つ、
エピソードをご紹介させていただきます。



僕が書き直すことも考えましたが、やっぱり気持ちの面で伝わるように、
投稿者様の文章を、原文を一部修正後、そのまま貼らせていただきます。





東日本大震災時、私が感動したエピソードを少しお知らせします。
勝田市内の避難所で、たぶん市役所から配られた1つのフリーズドライを、
見た目の派手な少女3人が分け合って食べていました。
理由は聞いていませんが、数が限られている中、お年寄りや子供を優先して
くれたんじゃないかなと思い、嬉しくなりました。

※フリーズドライ・水を入れるだけで食べられるお米などの食品





投稿者様、ありがとうございました。







このエピソードで感じたのは、『助け合い』。

僕は、今回の震災を、
本当にみんなで助け合ったから乗り越えることのできた震災だと思うんです。



これ、当然でしょ?みたいになってませんか?
当たり前のこと言ってる~みたいになってませんか?





僕は違うと思うんです。


このフリーズドライにしたって、

『私達は1つを分け合うから他の人に配ってください』

って、一言だけ言うのに、
この女の子たちにどのくらい勇気が必要か。






前ブログに書いたけど、

『なんかやることありますか?』

この一言だって、
他人に誰もが言える一言じゃないと思います。






正直、これが当たり前だ、といえる皆さんがすごいと思います。



みんなが『なんとかしたい』って思った時の優しさとか、
1人1人のほんのちょっとだけの勇気がたくさん集まって、

今があるんだと思う。




すれ違う人に感謝。
今に感謝。

2011年12月26日月曜日

コンビニの話

はいっ!こんにちは。
少しずつアクセスが伸びてきていて、嬉しいです。
僕の個人的な目標は、エピソードがなくなるまで書くこと。
頑張って更新します。


















さっ、今日は『コンビニの話』。
あんまり詳しく書くと個人が特定されちゃうので、
慎重に書きます(笑)。






3.11当時、まともに地震をくらった地域は、
ほとんど(全部?)の、あらゆるお店が閉まりました。



コンビニ、スーパーマーケット、デパート、マンガ喫茶、本屋etc...。



僕の近所でも、そーいったお店はみんな閉まってしまいました。
単純に、水道や電気などのライフラインが全てストップしていたワケなので、
お店の努力でどうこうできる話でないことも分かっています。


あーいう時、お金がいくら貯まっててもなんの意味もないことを感じました。
















そんななか、震災翌日の3月12日。
お店を開けたコンビニがありました。



それも、ただ開けていたワケではなく、
周辺の住民と店のスタッフが協力しあい、
営業を再開したとのこと。






まわりの、店は全部閉まっていました。
そりゃもぉ、誰が店長だって店閉めようと思います。


あれだけの地震ですから、商品は棚から全部落ちていたでしょうし、
例として挙げると、僕の近所にあるコンビニなんかは、
酒瓶が全部割れて、店内が酒浸しになっていました。












絶対最初は『閉めよう』って思ったと思うんです。




でも、そんな時、


『店長さん、早くお店始めようよ』と周辺の住民の方がやってきて、
十数人で店の商品を全部棚に戻してくれたらしい。






こぉ言っちゃなんだけど、
盗もうと思えば盗める環境下だったと思う。


お店始まらなくても、今棚に戻している商品をポケットに入れちゃえば、
わざわざ営業再開を待たなくても、お金を払わなくても、
欲しいものが手に入る。












当然のことが当然でなくなったこの状況下でも、モラルを保ち、
一つのコンビニの再開にみんなで尽力したこの地域の皆さん、
ご近所の底力というか、こういう田舎だからこそ生まれる、
ソーシャル・キャピタルの高さに感動しました。

2011年12月25日日曜日

野菜の話



こんにちは。今日はクリスマスですね。
毎年、みんな平等にクリスマスという日はやってきますが、
今年だけはなんか控えめな気がします。


僕は高校生まで部活をやってて、
毎年クリスマスには福島遠征があったんですが、
今の選手達に聞いたら、今年は中止だとか。

なんか複雑な気持ちになります。


















さて、福島と聞いて今頭に浮かぶのは、原発。
世界レベルで見ても、知らない人は少ない福島県になってしまった気がする。




原発といえば、一つは風評被害。


茨城県も例外なくそれを受けた場所であり、
ホウレンソウが出荷停止をくらった時のエピソードを書きたいと思います。









茨城県内の方でなくても知ってると思いますが、
3月19日、茨城県のホウレンソウは出荷停止になりました。




我が子のように育て、見守り続けたたくさんの野菜を
ゴッソリ捨てなければならない現実、

農家の方のショックというか、心持ちを察すると、
ほんとたまらなくなる出来事ですが、
全部のホウレンソウが捨てられたワケでないことが分かりました。





このエピソードをくれたのは、
水戸市在住の某バンドマン。

このバンドが活躍する水戸の某ライブハウスでは、
出荷停止になったホウレンソウを集め、無料で配ったらしい。







『廃棄処分するしかないなら、理解した上で食べてもらったほうがいい』


ただその思いだけで、動いたらしい。











それで、たくさんホウレンソウが集まり、

さぁじゃあみんなに配ろうか!

ってなった時、


実際どれだけの人が来てくれるのか、
不安はあったと思う。















そして、迎えた配布日当日、

時間になると、ホントにたくさんの人が来てた。






それも、みんな茨城県民。


『なんも問題ない。こんな時だから、県民が県民の野菜を食べなくてどうする』。



そんな声も聞けたらしい。


涙が出るほどの感動だった。












この話聞いて、茨城県民強いなと感じました。

たぶん、負けないな、原発に。原発は勝てないな茨城に。


原発がどうとか、放射能がどうとか、
全く勉強してないから知らないけど、きっと大丈夫。
だって茨城県民だから。

がんばっぺ。

2011年12月24日土曜日

病院の話

こんにちわ。おかげさまで今日も元気です。




水戸市の某整形外科で働いてる僕の先輩が、
エピソードをくれたのでアップさせていただきます。








3.11当時、先輩は病院の別棟で患者さんとリハビリ中だったそうです。
揺れが大きくなるなか、とっさの判断で、一番に出口を確保し、
患者さんを外に避難させました。


でも、病院は整形外科。足が不自由な方もいっぱいいます。






1階はもちろん、2階でも3階でも、階段を上がって患者さんをおんぶして下まで降り、
また上がって…。足腰の強い、男性の若い看護師が少ないこの病院では、
元剣道国体選手のこの先輩が、患者を避難させるチームの中心となって動いていました。



そんな中、ある1人のおばあちゃんを運んだ時の出来事が、
すごい記憶に残っていると言ってました。胸が熱くなったと。











そのおばあちゃんは、80歳を超えるご長寿さん。
でも、足が不自由で、歩行は困難。

この時も、先輩におんぶされて外に避難し、
体温を下げないように布団にくるまっていたらしいんだけど、



ふいに、『ちょっと、おにいちゃん』と、先輩を呼び止めたらしい。


『どうしても取りたいものがある。もう一度病室に戻して』。

なんど断ってもなかなかひかず、お願い、と繰り返していた。







でも、状況的にそれは不可能です。

だから、『僕が取りにいきますよ。なにが欲しいんですか?』

と、聞いたところ、『ベットの脇にある手提げ」と答えたそうだ。




先輩が病室まで走り、手提げを取っておばあちゃんに渡す際、
ふと中身を確認すると、

中に入っているモノはたった二つだけ。



















旦那さんの位牌と、息子家族の写真だった。






孤独な入院生活のなかで、病室に写真を飾る人は少なくないと聞いた。

このおばあちゃんも、亡くなったご主人の傍にいたいという気持ちと、
大切な息子家族の写真をおいていくことに、かなり不安を覚えたんだと思う。







震災の時ほど、『やっぱり家族』って事を感じたことはありません。


震災をきっかけに、数十年ぶりに家族全員で食卓を囲んだって話も聞いてます。



大学だったり仕事だったり結婚だったりで、いつかは家を離れるけど、
原点は、ソコだということ。地震がなかったら一生気づかないで過ごしてたかもしれないね。

2011年12月23日金曜日

東日本大震災 茨城全記録

こんなのありました。普通に家にありましたー。


『東日本大震災 茨城全記録』 茨城新聞社












やっぱ写真で見るっつーのはパワーが違います。
もっと言えば感情の移入が激しくなるということです。







また、今まさに僕らが書いている『エピソード』的なものも
たくさん載ってたりするので、
のちのちピックアップしてブログにアップしようかなと思います。


これ市報みたいにして配ってほしいな。
消し去ることも大事だけと残すこともスゲェ大事だと思うな。

2011年12月22日木曜日

避難所の話

こんにちわー。


当ブログで書いているエピソードは、
ネットでも募集をかけていますが、
それ以前に、


身の周りの人に、
大学の友達とかバイト先の先輩とか近所の人とか、


『なんかないですかー?』


ってちょっと聞くだけで、




…かなり出てくる。
当然のように。


やっぱ日本って温かい国だわ。日本人でよかった。
政治がどうこうあるかもしれないけど?、
個人個人の人間性はまだまだ温かい。なんか素敵だと思います。














そんな感じで、『避難所の話』。
もぉこのブログを書いてる中で、カッコイイタイトルをつける必要はないと思ってるので、
そのまんまになっちゃうんですけど。。。





ある中学校(避難所)に避難していた友人が、
体育館の中で、家族と合流するまでの間、
たくさん聞こえてきた言葉があったそうです。


それが、『なんかやることありますか』『手伝うことありますか』



だったらしい。








たぶん避難所になった中学校の先生たちは、
ほとんど休まずに働きっぱなしだったんだと思う。

それをサポートする人たちのなかに、驚きの光景があった。
驚きっていうと、なんか変っつーか、失礼なんだろうけど。






















『なんかやることあったら言って。外にいっから』。

って先生たちに声をかけたのは、





ダルッダルの制服に金髪の長髪を揺らせた兄ちゃん達だった。

後から分かった話だと、この中学校を卒業した高校生だったらしい。






友達も言ってたけど、
お世辞にも、真面目で誠実!とは言えない見かけの兄ちゃんたちだったと思う。
でも、制服のポケットからタバコ落としながら(笑)、
イスとか机とか水とか、たくさん運んで働いてくれていた。




見かけはどうであれ、やっぱりこいつらも心は温かくて、優しいんだなと思う。

っつーか、いつのまにか、見かけだけで先入観を持つダサイ大人になってんだなと、
自分が恥ずかしくなった。地震がなかったらこんなこと思わなかったかも知れないな。














僕の友達はその後、
1人の兄ちゃんが落としたセブンスターを拾って、

『ヤニ落としてたぞ』って言って渡したら、




『あっ、すいません!ありがとうございました!!』

って、普通の高校生よりもシッカリした口調でお礼を言われたらしい。
タバコは良くないけど、そんなことはどうでもよくなったと言ってた。







全ては中身。
きっと、ダルそーな奴とか、派手な見た目の奴ほど、
心の奥には、外に出せないで留めている温かさを持ってるのかなと思う。

昭和世代のエピソード

最近冬将軍も本気をだしてきてめっきり寒くなってきましたね

3.11事件が冬におきてたらと思うと背筋がぞっとします…

みなさんの身もそしてもちろん心も温めるという意味も込めて
ほっこりエピソードをお送りしたいと思います!!!!!!

※今回のほっこりエピソードは実体験にまつわるものです

話はさかのぼること3.11…
自分の部屋にいた僕はのうのうと漫画を読んでいました
ドヤガオで漫画を読んでいた僕は東日本大震災という未曾有の大災害の手によって
僕は初めてこの世の終わりとはこのことなんだと思い知らされました。

家のなかはめちゃくちゃ、ガス、電気、水すべて止まってそのまま夜になってしまい
食べ物もこうゆうときにかぎってガスや水が必要な食べ物しかなくて
『望みを絶たれたわー…』
と絶望してたときに

コンコンと玄関を叩く音が聞こえて開けてみると
そこには白い湯気が立ち上っているポットを持ったおとうさんのおじいちゃんが
突っ立っていて
『ほれ、電気と水止まる前にお湯沸かしといたからあげっから』














…おじいちゃんが白髪なせいかもうなんか天使でした

『ありがとう(泣)』といってお湯をもらいカップラーメンを食しました

おじいちゃんからお湯をもらわなかったらカップラーメンの麺をバリバリ食べるしか
なかったのかと思うとおじいちゃんには感謝してもしきれないほど感謝の気持ちでいっぱいになりました。


これをみてみなさんの身も心も温まってくれたらと思いますので随時更新を続けていきますので
よろしくお願いいたします!!!

2011年12月20日火曜日

子供の話

こんばんは。


今日は子供の話。




っていうか、私の甥の話。
私の甥は震災当時4歳でした。







3.11の本震があった時は揺れを軽減できる場所にいて
本当の揺れは体感できなかったみたいだけど、
その後の余震では、地震が来るたびに泣いてました。


5分に1回とか、10分に1回位の周期で余震が来てた時期を越えて、
ある程度子供にも免疫というか、余震に対する慣れみたいなものが
出てきた頃、

本震の1か月後、4月にM7が来ましたよね。
私の地域は震度5強でした。







本震と比べても大差ない大きい揺れの後、
いつも泣いてばかりいた甥っ子が、
キリッとした表情を浮かべ、

いや、キリッとしながらも完全に半ベソかいてたけど、









『なんでガタガタやるんだ!!!!ふざけんな!!!!!次はもぉ許さないぞ!!!!!!!』


ってぶちキレてた(笑)。










小さい体に大きなモーションで、
精一杯強がる姿に、家族中が感動しました。
ちょっと笑っちゃいましたけどね。


きっとこの子は強くなる。
大人も頑張らなきゃと思った瞬間でした。

2011年12月19日月曜日

おばあちゃん強し。


はじめまして。

大学の講義中、何気なく地震の時の話をしてたら、
嫌なエピソード、ツライエピソードもあるけれど、
温かいエピソードも多いことに気が付きました。


地震は嫌な思い出だけど、
普段見れない非日常の光景は、
悪いものばっかりではなかったハズ。


そんなに冷たい人ばっかりの場所じゃないハズ。


いろんな良い話を聞いて、
自分たちだけにとどめないで、発信したい!


そんな仲間を集めて、作ったこのブログ。
これから力の限り更新するんで、
ぜひ見ていただきたいです。
よろしくお願いします。

エピソードをお持ちの方、教えてほしいです。
よろしくお願いします。










さて、今月の11日で震災から9か月が経過しました。
僕が住んでいる近所は高齢の方が多いこともあり、
いまだに節目の時には手を合わす方もいます。

こんな光景もしばらくは続くのかな。


つい先日、
顔見知りのおばちゃんとそんな話で
盛り上がりました。(回覧板まわしついで)




その時、このブログの趣旨を説明して、

なんかないですかー?
聞かせてくださいよー。

って話をしたら、
即答で話し始まって。

その話を聞いて俺が感動してしまい。。。
感動というか、ハーッっとなった(笑)


なんか嬉しかったというか、
安心したというか。
なんで、一発目のエピソードとして
今日書こうと思います。

ハーッっとなる話。










僕が話したおばちゃんの母親、
つまりおばあちゃんは、
御年80歳。

このおばちゃんは足が不自由だから、
3.11当時、大きな余震に備えて
近所の中学校へ避難したらしい。



大人でも震え上がる大きい余震の恐怖に、
子供たちは号泣しっぱなし。

そんな中、このおばあちゃんだけは、
凛として、『大丈夫』と繰り返していたそうなんだ。
一瞬のスキもないぐらい、気合いに満ちた表情で。



あとになって、一緒に避難してたひ孫が、

『なんでばあちゃんは怖くなかったの?』

って聞いたら、




ばぁちゃん、深イイこと言った。↓↓

『別に爆弾が落ちてくるわけじゃねーから、なんてことないな』。













おばあちゃんは中学の時に戦争を経験してて、
戦闘機が頭上を飛び回っていつ爆弾を落とされるか
分からなかった66年前の記憶を根拠に、
この精神力を保っていた。



このおばあちゃんだけじゃなく、
3.11の状況下、気力が充実してたのは、
精神力に長けた高齢の方が多かったらしい。





世の中、
力や体力だけではどうにもならないことがたくさんあるけど、
この時ほど、『若者』と『高齢者』との融合を感じたことはないですね。


昔の人は強いというが、
強いのは力や体力じゃなくて、精神力。技術。



これは俺達が一生かけても、勝てんなと。

知恵は、上から下に、
ひたすらに伝えていくべきだと思う。


そんなことを、これを書きながら思ふ。


ありがとうございました。

2011年12月9日金曜日

ブログの趣旨

東日本大震災で被災された皆様に、心からお見舞い申し上げます。


私たちは茨城県の大学生です。
私たちが暮らす、ここ茨城でも多くの方が被災され、
日常生活とはかけ離れた生活を強いられました。






しかし、そんな非日常のなかで、
普段見ることのできない、




人の優しさ、
思いやり、感動、勇気、絆 etc...




当たり前で満たされていた普段の生活の中では、
見ることができなかった、感じることができなかった、
人の温かさを実感できたことも事実です。






私たちは、
東日本大震災を悪いだけの思い出としてでなく、
人の温かさや繋がりを感じられた良い機会としてとらえ、
心温まるエピソード、体験談を発信していきます。








それに伴い、
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当ブログの公式twitterもやってます。
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